留年ファクトリー

日々のことを文字に起こすことにした。留年はしていない(が危うい)。

手袋の右手用のみが大量に発掘された

12/25

母とドライブをした。
私は宇多田ヒカルを流した。(本人を流したのではないが、曲自体を本人の名前で呼ぶくらいには、曲を彼女そのものだと感じているのだろうか)
午後6時くらいに多摩センターを出発し、新潟の祖父母の家に向かった。
祖父はアルツハイマー病が進んでおり、認知や身体の調子が随分悪く、先は長くない。(認知症が進むと人が変わると言うが、彼は恐らく根っから優しく働き者で妻と娘と孫が好きな人、ということらしい)
祖母も祖父と同じくらいの歳で、足腰が順調でなく、自由に出歩くことができないが、祖父の面倒をみている。
親戚も多い田舎の家であったが、祖父母の調子が悪くなって以来、付き合いも変わってきた様だ。(人間とはつまらないものだ)
そういう訳で所謂楽しい帰省とは雰囲気が違うわけであり、数年前の様に母の動揺を目の当たりにするというショックはないが、やはり明るい気持ちではない。
母とドライブをすると、近況報告会をするのが例になっている。
何があったという話はもちろんだが、それ以上に、何を思ったかをよく話す。
以下内容
①私は、初見で自分の価値観に照らし合わせて悪い場合も、人が選択したなら良いものなのではないかと、私に良し悪しの断言はできないと、母に言ったところ、末っ子らしいと言われた。
よくわからなかったが、母に末っ子らしいと言われるのは嬉しかった。
一般的な末っ子観ではなく、おそらく姉と兄の妹らしいということなのがわかったからだ。
母はよく子供を愛してくれている。
②春頃友達とうまくいかなかったことがあったが、時間経過により徐々に修復でき、最近では十分に楽しいという話をしたところ、友達と私の仲をよく知っており、喜んでくれた。
私は"私が仲直りができた"ことを母は喜んでいると思ったが、話を聞くと"その友達とうまくいかない私は、大きなストレスを抱えているだろうから、それが無くなった"ことを喜んでいたらしい。
私の現代人にあるまじきストレス耐性の無さは、そんな素振りを見せたことはないはずだが、母は何故かよく知っていたのだ。
母が言うには「どんなに仲が良くても時々『この人って本当に嫌な人!』と思うけど、『そういうところも知ってたわ』となるから、やはり仲が良いということなんだ」ということらしい。

夜の11時前に到着した。
湯沢あたりはそこそこに雪が積もっていたが、祖父母宅の周りは積もっておらず安心した。
挨拶をすると祖母の反応は薄かった、なんだか疲れている様子だった。
祖父は寝ていたが、母が起こして顔を見せると、大変喜んでくれた。(寝かせておいた方が良いと思ったが、再会は全員で喜びたいものだ)
夏に帰ったときは久々だったのもあって、ある程度部屋が掃除してあったようだが、寒くて身体が動かないのか、大変散らかった状態であった。
私はケーキを切ったり紅茶を淹れたり、姉や兄の写真を見せるなどして、祖父母にとっての非日常をしてみせた。
母は部屋の掃除をしていたので、あとで私も手伝った。
大量の2019年版カレンダーがあったので母主催のカレンダーコンテストが開催された。
私は、あれが良いこれはダメなど言い、没作カレンダーは折って紙のゴミ箱にした。
掃除をしていると、手袋の右手用のみが大量に発掘された。
祖父に、もう寝る時間なので歯磨きをするよう促すと、洗面台の前まで行って、何をするのかわからなくなり帰ってきた。
そういうことが楽しいと、良い思い出となり得るこの家族を愛おしいと思った。
私が末っ子であることが損だと感じるのは、家族の死が、人生の早い段階で多く訪れることだ。
多分に出世をした私を見てほしいと願うことは、エゴでしかないのだ。

そんな最中に彼とLINEをしていると、彼はクリスマスプレゼントに、親からCITIZENの高そうな時計をもらったというので、ペアウォッチを検討していたが、買うのをやめようと提案した。
彼は大変悲しそうであった。
私はコンバースのスニーカーが欲しいので、そちらはどうかと言うと了承してくれた。
優しい彼であった。